旅路、鼓動。

数日前、帰宅するとマンションのオートロックが勝手に開いた。
昨日、早い時間からものすごい眠気がきて、
今朝、触ってもいないPCの電源が入り、早朝の静かな部屋にモーター音が響いた。

大きな体験の周辺には、いつも不思議な出来事が重なっている。
おもしろさと、ときめきと、わくわくと、ひやひやの、すごい高さのミルフィーユ。
その色はたぶん、レインボー。

もういく晩か眠ると、見たこともない、出会ったこともないことだらけの旅に突入する。
夏がきたころには、わかりやすいどきどき感でいっぱいだったのが、
気が付くと、逆に考えることが少なくなって、想像力が一気に衰退してる。
言葉にならない感触だけが胸の真ん中あたりに衝撃を与える。
その音すら、表せない。

18歳、はじめての長期ひとり旅。
もう十数年前。秋の気配をほんの一滴だけ垂らしたような、つるりとした気持ちのいい夏の日。
港へと向かう道すがら、バス停の名前にも「潮」や「汐」のつくようなものが多く、気持ちを駆り立てる。
港にはひともまばらで、
送迎デッキには、母と、微妙な距離をあけて、当時の恋人が並んでた。
心配を通り越して、わんぱくな少女を送り出す、なかばあきらめの面持ちで。
汽笛が鳴り、物資と少しの乗客を乗せた大きな船は出航した。
ダイバーとおぼしき褐色の肌の女性は関西の港で下船。
あとは、会社を辞めて長旅をしているという人のよさそうな小太りのおじさんと、わけありだと語る若い父親と息子。
船上の3泊、お菓子やつまみを持ち寄って星空の下でする宴会は新しい体験で、大人になりかけてると錯覚した。
彼らから見たら、生意気で危なっかしい10代だったろうと今は思う。
そしていまも、そう変わらない部分があるにちがいない。
見るものすべてがめずらしくて、おもしろくて。
目を大きく開いて、新しいなにかを取り込もうとして、ほとんど自動的に本能と好奇心がフル回転。
着いた港の海水はエメラルドグリーン。
数時間後には、その緑がまだまだ濁ったものだと知る。
離島の浅瀬には、色がない。クリアな、どこまでも透明なゼリーみたいなぷるりとした手触りのサンゴ礁の海。
コインランドリーではヤモリが鳴き、バーからの帰り道では子犬ほどのフルーツバットがばさばさと目の前を横切り亜熱帯の街路樹にぶら下がった。
付け加えるなら、光る鳥の大群も見た。
後に聞くと、それは生き物ではないということだった。UFO?
ほんとうに、すべてが新鮮で、感動しかなくて、ひとりで歩きながら笑顔がはみ出そうになるくらいに楽しかったあの旅。

たぶんそれを超えるものが、次の旅にはぎっしりと、びっしりと詰まってる。

そして、ひとりで歩いていると自分自身との対話が促進される。

土産話をシェアすると、たいていそれは未来につながる。
そういう旅は、
「楽しかった」「いい旅だった」では終わらない。

声に出して、その声を自分の耳で聞いて、もう一度それを脳に戻して、おまけにそこに話し相手の声が入って、情報が混ざって、ということをしながら思いは熟成され、不必要なものがそぎ落とされて修正される。マイナーチェンジ、微調整を経て、未来についての計画の精度が上がる。
勘で始まった物事が、そこを通ってなにか素晴らしい現実を形作る。
形作る間にも、次から次へと勘が動いて、パラレルに、いくつもの伏線が進行する。
まったく別に見えるようなその線の先すべては、たったひとつのなにか大切なものにつながっているかもしれない。
それはなんだろう。

大きいことの前、やたらと眠くなる。
一説によれば、体験に備えて魂がエネルギーを蓄えようとするからだとか。
ほんとうかどうかは別にしても、考える余地も余裕もないこの感じがきっとすべてを示してる。
あまりにも素晴らしい時間を持つと、それがなかったときの自分にはもう戻れない。
それを味わった人間、という位置より前には二度と帰れない。

旅に出るから、そんなことを思って画面のキャンバスに言葉の絵の具で描いてみると、松尾芭蕉の言葉が心に響く。

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。

日々旅にして旅を栖とす。

もうこうなってくると、日々はまちがいなく大いなる旅路としか思えない。

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