大きな狼の子どもをひろった小さな梟の雛がまるで獲物をしとめたかのようによいしょと向こうの森まで飛翔する。

そのうしろ姿を少し下のアングルから撮った映像みたいな、へんな夢を見て目が覚めた。
空はまだ藍色で、下のほうからうすらぼんやり朝の気配が近づいていた。

夢に関する研究はまだ進んでいなくて、これからも進むかどうかは果たして疑問で、不思議な感じのままでいいのかもしれないねと思ったりもする。
占いや分析の言葉で夢の内容を整理する活動も人間はしていて、たまに見てみるとおもしろい。

いろいろなものの形に動物をみる傾向は児童期に多いとされているけれど、ほんとうのところはわからない。
子どもの時代に与えられる本やテレビやグッズには、どうして動物のものが多いのだろう。
大人になるにつれて、大きくなって目の高さがあがって、生命溢れる大地からすこし遠ざかり、無限に広がるかのように高かった空は近づいてしまう。より身近なものに意識がいき、ふだん関わりの少ないものたちとの距離があく。アフリカも、宇宙も、夢の国のおとぎ話も、みな宝箱のなかにしまわれていく。

が、しかし、大人のいいところはそれらをいつでも自分の気分しだいで取り出して遊べることのような気もする。与えられるのではなく、意志をもって。
まわりにいる遊び上手な大人、楽しみ好きな大人たちは、みなおもしろそうでカラフルななにかを自在に手に取って愉しんでいるようにも見える。
実に楽しそうに。宝箱のなかには無尽蔵に色が散りばめられていて、それは底抜けの構造で、世界に、宇宙につながって広がり続けている。手を突っ込んで、この際、身ごと投げ込んで、もぐもぐと味をしめたいところだ。そしていつでも、その箱は閉じたり開けたりできるだろう。なんなら網戸でもつけて、のれんでも、カーテンでも。精巧なステンドグラスでも。なんとなく、きれい。

夢を見たところからたまには少し理論的な視点に立ってみようかと思ったけれど、結局さいごには映像になる。
それを映す映写機もまた、宝箱のなかのヘビロテなおもちゃなのかもしれない。