海のある暮らし

数メートルの海底から水面を見上げると、ぬるりと輝く太陽が揺れていた。
ダイビングというよりは、シュノーケリングをすることのほうが多かった。息の続く時間は限られていた。
陸を生きるヒト科の生き物、人間には不向きな世界、海の中。
呼吸を止めていられる時間が、そこにいることをゆるされている長さなのかもしれない。
海女さんたちはすごい。
ナイトダイビングや、ディープダイビング、タンクを背負わなければ味わえない種類の活動もある。
講習の際にははじめてにしては上手だと褒められた。魚に近づける気がした。
一瞬で勘違いだと気が付いた。
やたらと大きな足ひれをつけ、水から上がれば歩き方は無様。
マスクに海水が入ると、塩水の侵襲を受けた喉と鼻の痛みに耐えることになる。
ダツと呼ばれる尖りすぎたかたちの魚が人間の目に刺さった写真を見てからは、十数メートル先にその姿を見つけても怖くなり引き上げる始末。
自由じゃない。全くもって自由なんかじゃない。

それでも幾度となく、海に通った。
中古のターボ車にフィンとマスクとブーツを積んで、早い時間からいつもの浜へと向かう。
塩気のきいたフランスパンの美味しい小さなパン屋に寄り道して、ランチのパンを買う。
一分一分、暑さが増すが、エアコンは使わない。このあたりは海風も肌にここちよい。
すれ違う車はごくわずか。後ろから迫りくる観光客のレンタカーに道を譲る。
ハザードを炊いて速度を落とすと、道の脇に珍しい鳥を見つける。
カメラを持ってこなかったことを激しく後悔して、そっと鳥に近づく。
頭に大きな飾りのある地味な色のそいつは、生ぬるい妙な声をあげて飛び去る。
再び海へ向かう。
今日はどんなものに出会えるのだろう、海中に思いを馳せる。
尖った魚がいませんように!と祈りながら。
この時間、駐車場に車はまだ少ない。
車を停めて、ドアをロックするときに、焼き立てのパンの香りが辺りに漂う。
水に親しんだあとは、やたらとお腹が空くのだ。お昼が待ち遠しい。
着替えはすでに済ませてある。水着の上からTシャツと短パンを履いたまま、浅瀬で他の装具を備える。
水温はまだ低い。膝から腰あたりまで水に入ったら、一気に潜水する形をとる。
鳥肌も収まり、水と身体が馴染むのを感じる。
浅瀬の明るい海底には、白い砂地が広がっている。砂漠とよく似ている。
白くて透明な世界。ミント色をほんの数滴たらしてうすめたきれいな色。つるりとした触感。
小さな魚の群れが水平方向に何度も行きかう。銀色に光る、ナイフのよう。
サンゴの根とよばれる、岩のような塊が、そこかしこに点在している。
魚やエビや他の生きものたちのアパートのようになっていて、おとなしく見ていると、顔を出すこともある。
そうしている間にも低温の海水は私の体温を奪っていくが、不思議と寒さは感じない。
ひとしきり生きものを見つくして、少し深い沖のほうへと泳ぎ進む。
再び、浅瀬。ごつごつとした石や、岩の多い殺伐とした眺め。
そこを超えると、色が変わる。
突然の、青。一面の青。藍色でも、群青でもない、深い青。
太陽の光は何本もの白い直線の形で海底に向かう。不定のリズムで角度を変えて。
水温が、一気に下がる。
崖のような壁面からは、サンゴがびっしりと生えている。
大きな魚が悠然と泳いでいる。
崖をつたって下っていくが、海底は見えない。
恐怖。興味。両者は戦い、いつだって恐怖が勝利する。
人間を雌亀と間違えた雄亀に抱きつかれて深海へ連れていかれるという都市(海洋?)伝説や、
離岸流にもっていかれる可能性、さまざまな映像が勝手に頭で繰り広げられ、これ以上潜れない。
でも、ちがう。
ほんとうに怖いのは、底抜けの青。美しい、光射す海そのもの。
心地いいのは、浅瀬の明るい砂地。プロローグ。
畏れを感じるのは、リーフの外の本格的な外洋。

来た向きと逆にたどり、砂もはわらずにそのあたりのアダンの木の根に腰かける。
濡れたマスクを、枝にかけて乾かす。
冷めても美味しいベーコンエピという名のパンを食べながら、ついさっきまで目の前に展開していた異世界を思う。
やっぱり浅瀬がいいなと思う。
それでも、いつだってリーフの外まで泳いでしまう。
大きい魚が見たいだけじゃない。
サンゴの崖に張り付いてどこまで潜れるか試したいのでもない。
あの畏れを感じたい。
いつか映像で見たことのある、身体の細くなるフクロウのように、自分の身体がひゅっと縦長になってしまいそう。
海底の見えない、あの青が、地球のとても広い範囲を覆っているなんて。
むしろ、ほとんどは青で、そこに私たちの住む陸や島が生えているんだ。
世界は大きくて、どこまでも大きくて、涙が出そうになった。
そんなふうにひとりで思ったり、一緒に潜りに来た仲間がいれば言葉にしたりした。
視界には、白と緑と青があった。
海と空の間には、ほんとうには存在しない線が長く長く続いていた。
その水平線のゆるいカーブを見ていて、地球が星だっていうことを感じた。
地球に生きていることを感じた。
欲しいのは、そういう毎日。

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